少し早めの紅葉を眺めに、文化の日の祝日、
両親を連れて筑波山へドライブに行った。
帰り道、
地元のレストランで夕飯を食べて満腹になった父がふと、
「生きていてよかった」
と呟いた。

 奇遇にも同じ言葉をつい最近、仕事の訪問先でも聞いていた。
90代の男性が、若い頃子供を連れて旅行した東北地方へ、先日4泊5日のドライブツアーとして子供達に連れて行って貰ったという話を聞いた時、旅の感想を訪ねた返答と、同じ言葉だった。

 生きていて、よかった。その言葉の重みを改めて痛感する。歳を重ね、自身では出来ないことが増えていく中で、思いもよらず夢が叶ったような出来事に遭遇したとき、思わず口からでる言葉なのだと思う。そしてコロナ禍を生き抜いている今、誰しもが発しうる言葉だ。

 コロナ禍で、生きていることを疑問に思うような日々が続いている。無力感に打ちひしがれる事が、頻繁に起こる。更にはそれが、終わりなく続いていくような絶望感まで訪れる。

 ステイホームこそ無くなったが、コロナ禍で人の活動量は明らかに減っている。先日の筑波山登山では、男体山側にあるケーブルカーを使った負担の少ないルートを予定していたが、それでも母には辛かったようだ。

「少し位辛い思いをしないと喜びも味わえないよ」
と父は笑顔で話していたが、77歳の父と72歳の母にとって、久しぶりの山登りは想像以上の負担だった。帰りは私が母の手を取って導くこともあった。

ケーブルカーまでの道も、かなり大きな段差の階段が続いており、せめてもう少し道が緩やかなら、と私でも思ったほどだった。山道の整備不足も、あるのかも知れない。 

 幸い気温が高く、山頂からの景色は遠くが霞むほどだったので、爽快感を味わって山を降りることが出来た。子供時代の私と、軽々と山道を歩いたのになぁと、父は懐かしみつつ少し残念そうだった。

 今年は特に沢山の方が、急変して入院したり亡くなったりしている。身内でなくてもそのショックは、じわじわとストレスとして襲いかかってくる。

体力も免疫も落ちて、いつの間にか出来ることも減ってしまう。寄る年波の大きさを、身近に感じる登山でもあった。登れる足腰があるうちに、一緒に行けてよかった。

 行きたいところや会いたい人のところへ、行けるうち、会えるうちに動けることの大切さ。私達は、想定外の危険に晒され生きている。その報いが感じられた時、生きていてよかったと心から思う。



via SLOW DOWN LIFE
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