街と猫とコトバを愛する訪問介護士のつれづれなる日記。夫婦仲良くHappyなDINKS LIFEを送っています☆
石川県から猫が搬送されてくる。そんな言葉を封書の文面に見かけた。昨年立ち上げの際、クラウドファンディングで支援した保護猫シェルターの運営団体。1年を経過し、新たな追加支援を募る封書が手元に届いていた。その中の文面だった。先日、地元に出来た保護犬保護猫シェルターでのお世話係を始めたばかりだが、自身の経験値が少なすぎて戸惑ってしまった。更にはタブレットへの入力に抵抗感があり、 ボランティアに行く足が遠のいている。そんな中、一歩先を行く東京のシェルターのレポートに色々と参考となる情報が掲載されていた。保護シェルターの運営も、色々だ。ボランティアにどこまで求めているのか、そしてどこまで関われるのだろうか。他にも、毎月の支援をしている団体がある。自走型を掲げ、行政とうまく連携して保護猫の看取りまでできる施設の建設を目指してクラウドファンディングを立ち上げたらしい。そしてそちらの団体も、能登半島へ支援の車を走らせている。被災したのは人間だけじゃニャイ。地域で見守られている猫たちも様々な事情でそこにいる。我が家は猫を飼う事ができないので寄附で保護猫活動を応援しているが地域でのびのびと、そして逞しく生きる猫のことも応援している。気候変動の激しい日々に猫生を全うできる猫は少ないが、見守りやお世話をライフワークにする優しいコミュニティがわずかながらそれをアシストしている。我が事としての猫活と被災猫の保護活動。保護猫団体があちこちから手と足を伸ばしている。譲渡会で、活動費をカンパしたり活動内容を知って応援したり、被災猫はやむなく住まいと飼い主と別れ新天地で生きて行く。人は、どうか。住まう地域を再建して住み続けたいと願うだろう。生きようとする日々に正解も間違いもない。できる事をする事実だけが積み重なり行きたいところへきっと辿り着くことができる。私は人と猫が穏やかにすまう地域で共生できる未来に辿り着きたい。
2022年の今日。2月24日。私は推しのアニメキャラの聖地巡礼で神社の御朱印を受ける列に並んでいた。 目を疑うような速報に絶望感に包まれつつも推し活を遂行し、二度と訪れない今日を十二分に楽しんでいた。今朝。朝食に焼きすぎたピザを食べながらチコちゃんに叱られる!を見ていた。猫の目が光る謎について何故だったっけ?と気にしていた私にはタイムリーなリマインドだった。網膜の裏側にあるタペタムという反射板を猫は持っている。(2022年の4月29日の再放送より)昨日。大好きなドラマの展開があまりにも切なかった。現実においても震災を切り離して人生を全うすることが困難になってきている。世の中の殆どのことはどうでもいい事でできている。はずなのに。2024年の今日はあの日の絶望感が増大してる。世の中の大多数の人々がどうでもいいと思うような事が私には大事に思える。例えば猫の目のタペタムとか。例えば買ったばかりの安物の保冷バッグの裏地のほつれとか。どうでもいい話には自由がある。どうでもいい話ができる私はシアワセだ。どうでもいいと手放してしまえないものか。こだわりを。他者を。世の中を。時には理想を。猫の目のタペタムは気になって羨ましく思ったが、人間には無いものだ。バッグの裏地のほつれも気にはなるが、直さなくても使える。だけど猫の目のタペタムみたいなものが作り出せたらと思う人がいる。そしてバッグの裏地のほつれを下手でも直したい私がいる。昨日。ひょんなことからリハビリ中の腕が上がらなくなって困惑気味の夫が「今日のリハビリが終わったら行きたかった企画展に行こう」と私を誘ってくれた。すぐには治らぬ腕にこだわらず素敵だと思うモノに会いに行く。2024年2月24日の今日。どうでもいい話だけど、いい天気ですね。どうでもいい話だけど、今日は何をしますか?どうでもいい話をしよう。そして互いを認めあって互いの今日のシアワセを願うことが出来ますように。 追伸。どうでもいい話ですが、とっても素敵な1日を夫と過ごすことができました。例えば竹芝で出会った虹色のスイーツとか。例えばブルートレインの写真展や フランク・ロイド・ライトの企画展とか。例えば変わらず穏やかな、地域猫の今日の姿とか。どうでもいい話を、これからも続けられますように。
仕事が楽しいヤツは人生の半分楽しい。そして仕事が楽しいヤツは残りの半分も楽しい。2009年のドラマ「リアルクローズ」から聞こえてきたセリフが2024年の私に響く。あの頃の私は夫と今の住まいで新生活を始めてまだ1年が過ぎた頃だった。派遣社員だったあの頃。それなりにやり甲斐は感じていた。仕事を通じて世の中と自身のシアワセを実現していくようなストーリー。少なからず共感して励みにしていた。5年後、10年後、あなたは何をしていたいの?have to じゃなくてwant を考えなさい!パワフルなセリフが印象的だった。大型デパートを舞台にファッション業界で働く人たちの人生模様。夫と二人、のめり込んで見ていた。そして最後は涙まで流した。意にそぐわぬ環境に転籍となりそこで自己を見つめ直した主人公が、ファッションを通じて人を幸せにすることへの喜びに目覚めていくというストーリー展開とデパートという業態への存続の危機に立ち向かうという内容やカリスマ性あるリーダーとのやり取りに夫婦揃って引き込まれた。 夫は去年、7月から転職活動をはじめて年内に内定を頂くことができ、 2月19日に退職。その翌日から新天地で働いている。前職では意にそぐわぬ転籍を経験したが、今の職場ではむしろ転籍先での経験が役立っているようだ。退職日。生まれて初めて花束を贈られた夫。その花が、贈られた翌日には新天地へのエールとなっている。オレンジや黄色の花々をリビングに飾って眺める日々。ここで終わりたくないまだまだ頑張れるところがあるはず。51歳になり、困難な転職を決意した。 書類での通過率は2%。エージェントの力を借りつつ自力でも応募し続けて内定を取得。年明けに旅先での転倒事故で骨折。手術を受け、全治に半年。現在はリハビリの最中でもある。何があっても新天地に行くという決意が挫かれることはなかったのは本当に感心する。2009年。あの頃の私達は互いに都心に通勤しながら同志のように励まし合う日々だった。2024年の私達は、それぞれ働く場所が変わり目指す方向は異なったけれど、咲きたい場所で咲き、それぞれのドラマを讃え合っている。あっという間の15年。桃も栗も柿も実が成る程の年月だ。仕事を通じて誰かを笑顔にしている?仕事をスキでいられている?あの頃の私が問いかける。YESなら、残りの人生も楽しめるはず。SNSがさほど活発でなかったあの頃は自身と向き合うだけでよかった。映えも評価も今ほど気にせずに眼の前の景色を楽しんでいた。自分なりに咲いて唯一無二の自分を精一杯演じよう。未来の自分が楽しかったと振り返る。いつか花をまた今日みたいにしみじみと愛でながら。蕗掲載予定
2024年の、新しいチャレンジ。犬猫の保護シェルターでお世話係をはじめた。「犬と猫、どちらかお世話したことありますか?」そう聞かれて、猫と答えたのは失敗だった。どっちもないが、正しかった。日頃猫パトロールをしてはいるがお世話されるような猫は殆どいない。猫側からしたらお世話された憶えは、にゃい。2時間の、生まれて初めてのお世話ボランティア。言われるがままに恐る恐る猫に関わる。猫たちは、人懐こくて威嚇のシャーもなかった。お水とご飯のお皿を下げて排泄物の撤去とシートの交換。夜は冷えるからと毛布をハウスに入れるのも苦労は全くない。そして外に出たがる猫もいない。「次は、ワンちゃんのお世話に行きましょう」犬の保護シェルターは、別棟である。扉を開けるやいなや、賑やかな犬の声。鳴かない犬のほうが少ない。穏やかだった猫舎とは真逆の犬舎。同じことをするだけでもだいぶ労力が違った。① 排泄物が多く、頻度も多い② 床や布、おもちゃも汚れる③ 世話する側も汚れる生き物は体調によって排泄物の様子が異なり部屋の汚れ方が派手に違ってくる。お世話係がそれぞれの個室に入るので汚れ方がそこで変わってくるし出入りの際の飛び出しの危険性も高い。大きな犬の世話は慣れた人でなければ難しそうだ。(今回犬のお散歩もあったのだが15kgの2歳のパワーに戸惑った)介護職として訪問宅で犬猫に遭遇することが時々ある。その際、原則として介護士に接触しないよう別の部屋に留めおくか、リードやハーネスに繋いでおくのだが、稀に室内を自由に往来しては足元に纏わりつかれることがある。その際も、猫より犬のほうが扱いに困ることが多い。今後どこまで関わるのかは不明だが、時間に制限があるので可能な限りのお世話を教わった。●水とご飯のお皿を洗ってもとに戻す(先に消毒に浸け置くものもある)●汚れた布類の汚れを洗い流して洗濯、乾燥●新しいお水とご飯のセット●ゴミ類をまとめて敷地内のセンターへ未経験の私が果たしてどこまで約に立てるのかはまだわからない。お世話係としてどこまで関われるものかそれもよくわからない。だけど猫も犬もカワイイ。いろいろな経緯でシェルターに来たのだから保護主に出会えるまでは穏やかに健やかにここで過ごしてほしい。訪問先ではそこに住まう利用者を1番に考えるみたいにここでは犬と猫を1番に考えればいい。無駄な学びはここにはない。週に1度の学びの2時間が様々な刺激となりそうだ。※写真の子は、昨年の譲渡会のものです viaSLOW DOWN LIFE Your own website, Ameba Ownd
2024年の大きなうねりの中で穏やかな日々のありがたさを噛みしめる。日曜の夜。夫がグラタンを作ってくれた。(日曜は私が仕事なので夫が在宅のときは作ってくれている)なんと我が家でグラタンを作ったのは今夜が初めてだった。天袋のような台所の棚に確かあったはず、と、ガラス製のグラタン皿を出してくれた。「ウインナー、食べた?」午後の仕事前に下ごしらえしておいた野菜たちも、美味しくグリルされていたが夫が加えたウインナーは会心の焼き上がりだったようだ。 「まだ、あと二回は作れそうだよ」夫の得意料理、確定らしい。 なぜだろう。グラタンを作りたいとも食べたいともおもわなかったのは。出来ることは、自分でやるという、自立した夫。 トラブルからのリカバリも普段なら一人で乗り切れる。だけど年明け早々の一件は沢山の人のお世話にならなければ乗り越えられなかった。 転職を2月に控えていた矢先、年末年始休暇の終わりに雪山で骨折した。日帰り旅行で鎌倉にいた私はちょうど鶴岡八幡宮での特別祈祷に参加するところだったのだが、能登の震災復興に加えて夫の無事の帰還を神楽殿の祭壇から祈念した。その願いが聞き入れられたおかげか(願いとは誓いであるのだが)夫は現在、私にグラタンを振る舞える程回復している。奇跡的な回復への軌跡を、記録として記しておこう。1/6 スキーで転倒、会津から関東へ自力で最寄り駅に戻って夜間外来に駆け込む(宿泊先の方が駅まで1時間の距離を車で送ってくれた)夜間、整形外科医のいる病院で検査を受け、骨折判明1/9 整形外科受診(紹介状持参)奇跡的に専門医の診断を受け、手術確定1/10 入院(フロアスタッフが偶然妻の知人でホッとする)1/12 手術(3時間の金属インプラント手術成功)1/19 退院1/22 初出勤で職場復帰サポーターで腕を固定しながら通勤週に3日(月木土)のリハビリを受ける(回復までは最低半年継続予定)1/26 腕の固定(三角巾)サポーター解除(出勤時にサポーター着用し忘れるほど回復)入院先での夫とのやり取りの中で、健康的な食事が話題となり、電子レンジを新調したこともあって、さっそく新しいオーブンレンジでグラタンを作るに至ったのだった。回復傾向であるとはいえ、腕を肩まで上げるにはまだまだ時間がかかる。体内に金属プレートがある感覚や寒さで傷口がうずく感覚にも慣れていくには時間を要するだろう。骨折は修復から回復へ。リハビリ生活こそ夫の戦いの日々だ。次に夫の作るグラタンを食べるとき、腕がどこまで回復しているだろう。痛みを堪えながら椅子に座って体を前傾させ、リハビリで教わった腕を床につけるトレーニングを風呂上がりに実践していた。1/29の夜。夫の学生時代の友人から連絡があり、互いの近況と共に自身の骨折の話をする夫は笑顔で声も明るかった。事故から3週間が過ぎていた。この笑顔がみられてよかった。寝る前、何故か顔をクシャクシャにして泣き顔で寝室に向かった夫。入院中に19歳で虹の橋を渡っていった保護猫パンダとその仲間について写真本を作ったのを読んで泣いていた。もう、あの場所には猫たちは居ないんだね…夫の骨折と愛猫との別れ。私も喪失感が大きい。ホッとした気持ちとともに夫婦で猫の話をして泣いた。笑って泣いて忙しい日常。誰かのことを思えるって何より素敵なことだよね。何かを失ったとしてもその心だけは無くさないように。また、グラタン作ってね。(カブを入れるのがおすすめです) viaSLOW DOWN LIFE Your own website, Ameba Ownd
2024年。4月になれば、私は51歳。夫は52歳。人生100年時代の節目を過ぎた。戦争のない時代に生まれ、今のところ戦争をしない国にいる。そして今のところ不自由なく幸せに暮らしている。と、思っていたけれど。夫にとって去年は 人生最悪だったらしい。その結果転職先が決まったことは未来への希望となったけれど、次の節目にむけ試練が続いている。次の節目に向かうにはどうやらもっと軽くなる必要があるようだ。手放して浄化するそんな時期。長年好きだったフラ大好きだった保護猫それらとお別れをした。(猫は旅立ったのだが)愛って心を惜しみなく向けていくことだ。だからお別れした時、体の一部が無くなったみたいにつらい気持ちになった。でも生きていく限りまた新たな方向へと心を向けていくのだろう。そうすることで心が軽くなっていく。愛を向けたことが誇りとともに心の支えとなる。そして今夜は愛する外猫とウルフムーンの満月を見上げている。きっと私はもっと軽やかに生きていける。月明かりに浄化されながら。 viaSLOW DOWN LIFE Your own website, Ameba Ownd
2023年を、忘れない。馴染みの外猫との別れ。2月にシマグレ12月にグレハチどちらもお別れが出来たことを忘れない。夫の苦難と挑戦。7月から始めた転職活動、51歳の挑戦は衛生管理の資格と大手総務のキャリアが小規模エージェントの目に止まりエンゲージメントに至った。このままで終わりたくない今を生きる私達は少なからずどこかでそう思って潜在意識に導かれて未来を向く。夫の思いが報われたことを忘れない。コロナ禍からインフル禍へ。マスクは職場の必須アイテム。極力ワクチンは打たない。健康は自己免疫で守ることを忘れない。そして2024年。元旦の朝日を地域猫キジマルコと迎えた。寝床を追われて人目につく側溝で何かを訴えるように暮らしている。共に、生きていこう。そう言ってる気がして夜の暖をとるカイロを追加で仕込む。元旦は、妻である私の実家でまずは新年のご挨拶。やや洋風のオリジナルなお雑煮に取り寄せた豪華な京風おせちと、スーパーで購入したお刺身。紅白や駅伝の感想を言い合いながら弟も少し合流して互いの健康と安全を願い合うご挨拶。元気なうちに、お出かけしておこう。列車の旅を、今年の目標にした。昼過ぎ、夫の実家へ、早めに向かう。義父から連絡もあって、先に初詣に行ってから帰宅した。さあ、ひと休み。保護猫まめにゃんに挨拶して居間で団欒のひとときを過ごしはじめた頃。16:06に警報音が鳴り、能登半島沖を震源とする大型地震が起きた。遠く離れた関東にも長い揺れが起きた。津波の被害は予測を下回るも輪島の街中で火の手が上がり、かなり広範囲の家屋が全焼。あちこちの道路で亀裂、寸断、崩落。珠洲市の9割が倒壊したと後に判明した。(珠洲市には過去、原発が検討された経緯が有ったと初めて知る)寄付する事しか、今はできない。かつての東日本大震災の頃は心がざわつき続けて物資を送り続け、2ヶ月後現地へ向かったこともあった。困ってる人に、実際に会いたい。話を聴くしか出来なくても。当時車で得意先のお宅に毎日のような食材を配達して回っていた女性は、眠気覚ましを飲みながら運転をして現地を案内してくれた。話をするうちに緊張が解れたのか涙を流していた。同行の女性に「この景色を見て、復興できると思いますか?」と質問されたあの日から、12年が経過した。沿岸地域に無限に広がる、何もない景色。かつてここに家があった、その土台だけがあった。鉄筋の建物の上には、車があった。漁港を乗り越えて街なかに、船があった。祈念公園が作られ始めた2019年にようやく夫を伴って再会できた。コロナ禍の2022年夏、忙しさの合間を縫って、また会うことが出来た。そして2024年。出来ることをとSNSを辿り、地元で開催される全国高校サッカー選手権で3回戦に対戦する石川県代表星稜高校の応援団が現地入り出来ないという情報を得た。義母を誘って車で柏の葉スタジアムへ。50人程度の応援団は、2回戦を終えたチーム。そして次の対戦を控えたチームも応援に加わっていた。対戦相手も星稜のチームカラーである緑色のメガホンなどを貸与してくれたそうで、勝ち負けを超えたゲームとなった。その反対側、自由席でも黄色い紙が配られ健闘を陰ながら応援していたのだが、その一員になれた事は想像もしていない未来だった。大きくなった甥と姪と、夕飯を共に過ごす。成人して大学4年となる甥と春から大学生になる姪にテレビを消した空間で色んな質問をする。スキな事に夢中な大学生活であってほしい。デザートのいちごを食べる顔は幼い頃から変わらないあどけなさだった。猫パトロールを終え、自宅で落ち着いた2日目の夜。不在票が気仙沼から届いていた。2022年の夏に、慌ただしく再会した女性から、フカヒレスープが送られていた。応援のベクトルは、今、双方向の矢印だ。一時は歩行困難になるほど具合が悪くなった2023年だったが、今年はどこかで時間を作って会いましょう! と明るい声を聴くことができた。1月2日。羽田での衝撃的で辛い衝突事故が夕方に起きていた。奇跡的に旅客機の乗員全員が炎と煙の中脱出に至った事を、忘れてはならない。そして海上保安庁のエアバスは新潟への支援に向けて待機しており東日本大震災で唯一無事だった機体と共に精鋭達5名が帰らぬ人となったことを忘れてはならない。生きている限りこのままでは終わらない。このままでは終われない。「がんばれ! 日本の絆 今こそ強く」全国高校サッカーで選手権3回戦で日大藤沢の応援団が掲げた横断幕には力強いメッセージが描かれていた。出来ることをしよう。出来る人を出来た人を応援し、讃えよう。批判は、時間のムダだ。スポーツで音楽でエンタメでスキなコトでそれぞれに未来を生きていこう。会いたい人と会いたい自分が未来で待っている。 viaSLOW DOWN LIFE Your own website, Ameba Ownd
令和5年の紅白歌合戦は、耳慣れたアニメやドラマ絡みの楽曲が多くエントリーされた。毎年、紅白で世間の流行りを後追いする私にとって、耳から得る情報は心地よく脳裏に残っていく。 コロナ禍にアニメ『鬼滅の刃』が映画化され、オーケストラの演奏に触れて作品の世界観を耳から楽しむことができた。作品の背景に流れる劇伴も、あらゆる作品で耳に残り、その世界観に私達を誘ってくれる。最近は、アニメ『葬送のフリーレン』の劇伴に使用される北欧の楽器が、ノスタルジックな冒険の旅に耳から連れて行ってくれるのが毎週の楽しみである。 音楽が、理由もなく心を鷲掴みにする。そんな体験が続いている。 アニメ映画『BLUEGIANT』でも、ジャズの熱さが劇中の演奏から伝わってきた。音響の良い上映館に通うファンが沢山現れ、再上映も続いている。もはや耳からに留まらず、体全体で楽曲を楽しみたいという衝動に突き動かされる作品なのだ。 コロナ禍や世界情勢、気候変動の不安で縮こまった心を解き放ちたい欲求が、あちこちで渦巻いて溢れ出ている。溢れ出るなら、怒りではなく歓喜であってほしい。 朝の連続テレビ小説『ブギウギ』で、ラッパと娘という楽曲がステージで披露された。そのシーンに、またしても心を鷲掴みにされた。この楽曲が発表された当時、昭和14年は、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。日本では「国民徴用令」が7月に公布される。燃料不足から、木炭が配給制になり、統制や抑圧が厳しくなっていく。舞台を大手を振って縦横無尽に動き回れたギリギリの頃。ラッパの演奏に負けないくらい威勢よく声を張り上げる笠置シヅ子さんを演じる趣里さんの歌声が、耳から離れなくなった。そしてご本人の歌声も、耳から脳裏に焼き付いた。 「ジャズは熱い」と評して世界一のサックスプレイヤーを目指したのは、アニメ映画『BLUEGIANT』の主人公、高校を卒業して仙台から上京したばかりの青年、宮本大くんである。その言葉を実感したのは、映画のクライマックスのあたり。仲間が不慮の事故に遭い、夢の舞台に立てなくなりドラムスとテナーサックスだけで演奏するシーンだった。逆境でこそ、その熱さが伝わって来る。切なげな短調の音階は、ジャズがブルーと表現される由来らしいのだが、抑圧された感情が溢れ出す表現として、西洋音楽の規律に反する自由さも、ジャズの熱さなのだと私は理解している。 耳から脳へと伝わる熱いエネルギー。映像技術に目を奪われがちだが、楽曲にも耳を寄せて、その熱量を味わう日々を、今、この時代にこそ楽しみたい。蕗357号 掲載予定 viaSLOW DOWN LIFE Your own website, Ameba Ownd
酷暑が立秋を超え、処暑を過ぎても日本列島に留まっている。台風の進路が北にずれて熱波が日本海側からも吹き寄せ、連日熱中症アラートが発信されている。 8月8日。マウイ島のラハイナが焼土と化した。歌に出てくるその街は、自然が豊かで人々が大らかに日常を楽しむ様子が微笑ましいのだが、防災への配慮が問題視される報道もあり、そこに連日の乾燥と、ハリケーンの暴風が重なり、大火災となったようだ。 地球温暖化から、地球沸騰へ。それを私達は否応なく体感させられている。マウイ島に限らず、山火事はあちこちで発生しているが、今回は急激な乾燥という「フラッシュ干ばつ」が発生したこと、乾燥に強く燃えやすい外来種の草が繁殖したことが、大火災の原因となったようだが、線状降水帯に悩まされていた日本にとっても、他人事ではなくなってきた、と最近特に感じている。 コロナ禍で貴重な高校時代を終え、成人を迎えた若者が、8月2日に突然我が家に泊まりにやって来た。その前日、都内では集中豪雨があったのだが、その中で彼女はひとり、大阪から新幹線で友人に会うために東京に来ていた。宿を押さえたものの心細い思いで都会の一晩を過ごし、母親の友人である私を頼ってLINEで連絡を試みたのだった。 本来なら彼女は、都内にいる友人宅に泊まるはずだった。友人は大学生活における人間関係に悩み、人と会える精神状態ではなくなったのだそうで、恐らくコロナ禍で人との距離が保たれていた所から、直接対峙する機会が増えたことで生じた弊害であろう。都内滞在中、二人が会うことは叶わなかった。 都会で突如ひとり、観光して過ごすこととなった彼女も災難だ。気分転換換にと浅草観光に付き合ったが、東京観光のメッカはやはり大混雑だった。酷暑の炎天下、日傘片手に食べ歩きするのが彼女の望む楽しみ方だった。仲見世で飲んだレモネードに、人形焼を乗せて写真を撮る感性で、後日動画を送ってくれた。1分程度の尺に、若者目線の東京が詰まっており、突然の受難も私達には良い思い出となった。本来なら一緒に楽しんだであろう彼女の友人とも、いつかまた東京観光を楽しんで欲しい。 訪問介護士として地元で働き始めて、今年の8月で8年目となる。様々な出来事に心身ともに鍛えられながら、今年の酷暑下でも何とか体を壊すことなく働けてるのは、日常がスポーツのようだからだろうか。帰宅途中で毎日会う地域猫に、散歩がてら会いに来る人も増えた。一方、捨て猫や不法投棄もあり、先住猫には居場所を脅かす災難となっている。 人が動けば災いも起きる。観光地では人手不足でイベントを中止する自治体も現れ、問題回避策が実践され始めている。自然災害と向き合いながら、災いを福と転じるよう創意工夫を続けながら、豊かな未来に向かっていきたい。蕗356号 掲載予定 viaSLOW DOWN LIFE Your own website, Ameba Ownd
母の日の週末に、両家の母を訪ねて回るドライブツアー。コロナ禍でも続けていた恒例の行事だが、今年は忘れ難い週末となった。 夫の両親には、結婚前からの長い付き合いの友人夫婦がいる。家族ぐるみで旅行に行ったり互いの家を子供達が行き来したり、義父の職場繋がりでのご縁らしいが、双方の妻は夫らを上回る仲の良さだったようだ。 最後に会ったのは、4年前。コロナ禍直前で、肺ガンと聞かされ会いに行った翌年の秋だった。その後夫の両親だけでも昨年、会いに行ったらしい。ご主人も認知症を発症し、奥様が入退院を繰り返すようになり、今年はどうしようかと義父が迷っていると聞いて、再び4人で大型連休開けに会いに行こうと予定を組んだ矢先、奥様の容態が急変。病床から、私達の来訪予定を思い出し、入院を知らせる電話をかけて義母と話したのを最後に、78年の生涯を閉じられた。 コロナ禍でも幸いにして家族葬の会場へ、通夜、告別式の両日共に参列することができたのだが、闘病生活が始まる直前まで続けていた活動への感謝状が飾られており、市長から弔電を頂く程活躍されていた事を知った。 戒名に、睡蓮。優しく微笑む生前の姿が偲ばれる。幸いにして出棺前のお花入れに立ち会わせて頂くことも出来た。母の日に、花と共に旅立った。これからは、母の日が来る度にこの日を思い出すだろう。 通夜の際、来訪者を笑顔で迎えていたご主人。自身の事情について、頭を指差しながら「ココがどうもダメでね」と字を書くのが特に苦手になったと話していた。笑顔は見られたものの、奥様との最後の別れの瞬間は、ただ目の前の奥様を言葉なく見つめる姿が切なかった。奥様の胸元には、ご主人が置いた赤い花。患っていた肺に一番近いところにあった。 母の日の花を花屋で選ぶ時には既に訃報に触れていた。どんな花が好きだったのだろうか。そんな事を考えていたら大きな蕾が目に止まった。どんな花が咲くかを楽しみにできれば、と名前を伝えずに花束の主役にした。 「芍薬ね!私大好き!」と、義母は赤子を慈しむように両手で萼を揉み、花弁の先端に鼻を近づけていた。こうすると花が開き易いのよ、と。義母の期待に応えるかのように、告別式から戻ると蕾が大輪の花を咲かせていた。 当初ドライブで会いに行く予定だった日。葬儀翌週の土曜日。夫が家の留守電に生前の声が残っていた事に気づいた。4年前、記念写真を飾れるように加工して送ったものが届いたという知らせだった。その声は、あたかも今回の参列へのお礼のメッセージのようにも聞こえた。 あの日の「ありがとう」の声が、貴重な記録となり、何度でも私達の心に花を咲かせてくれることと思う。蕗355号 掲載予定 viaSLOW DOWN LIFE Your own website, Ameba Ownd
4月19日。なんの日だっけ?SNSが、リマインド。舞浜で、挙式と結婚披露宴。あれからもう、15年。夫婦揃って日常に追われる日々の中でその「特別」を忘れてた。 風が強くて少し雨が混じったおかげでライトアップされたラウンジで階段に並んで集合写真を撮ったっけ。ハプニングのほうが色濃く思い出せる。 15年目の「特別」は穏やかな夏日。季節の花々が例年より早く満開となり、ツバメも飛び始めた。毎日はそんな異例な「特別」に溢れている。それをコロナ禍でしみじみと日々、実感している。訪問先への道すがら、沢山の花と遭遇する。名前を調べて挨拶をした。「この時期は自転車で移動するのが楽しくていいですね」と、ご主人を緩和ケアされている奥様がにこやかに話しかけてくれた。季節の花や、思いがけな花に溢れ、愛情たっぷりの「特別」なおうちで少しでも長く穏やかな日々を生きてほしい。そう願いながら、丁寧な日々に寄り添う。沢山の「特別」に気付かされながら。15年目の「特別」は夫のノー残業デー。そして映画のサービスデー。夫の好みの映画を一緒に観た。20:30からの上映で、併設の、ショッピングモールは20:00閉店。駅前のマクドナルドに長蛇の列ができていた。「働き手が居ないんだよな」と、ハンバーガーを食べながら食べる店のある「特別」に安堵する。外食しながら互いの思いを「特別」に吐露し合う。仕事の話はそこそこに、趣味の話で盛り上がった。これからの趣味は、どこにも属さないでできるのがいい。趣味はそれぞれの「特別」な時間。ミニマムに自己完結を理想としながら持続可能なカタチがいい。そんな思いで共感し合った。互いの誕生日が近く、約1週間は同い年となる。今年は「特別」な、生誕50周年。これまでも、これからも、「特別」な日々は続く。予期せぬことは喜ばしいものでないことが多い。だがそれさえも「特別」と楽しんで彩り豊かな思い出を積み重ねて行けたらと思う。 viaSLOW DOWN LIFE Your own website, Ameba Ownd
待ち焦がれた、春。3/13にマスクの扱いが変わり、地元の枝垂れ桜が満開になった。3/14には地元で卒業式があり、ソメイヨシノの標本木から開花宣言となった。弥生の空は見渡す限り霞か雲かの、桜が咲き始める。日々に追われる中で楽しみを見失わないよう必死に態勢を整えている。目まぐるしく季節は変わる。時はともに寄り添って悲しんではくれない。コロナ禍で多くの人の心を支えたアニメキャラの言葉の如くあれからもう、3年。そのアニメも、新たな展開を見せてくれている。100年もの間変わることのなかった状況が今、変わったこれは、兆しだ。同じアニメに登場する組織の長に当たる人の言葉。この作品自体が 周囲を巻き込み大きなうねりとなっている。そんな作品にちなんだオーケストラコンサートを観に行くことができた。アーカイブ配信というコロナ禍に発展した文化のライブ・チャットという機能であの頃はたったひとりでワクワクして参加していた状況から多くの作品愛あふれる仲間と大きなうねりを楽しんでいる。生きていてよかった。心からこの時代の波の上で好きなものに夢中になっていられる幸せを噛み締めている。 viaSLOW DOWN LIFE Your own website, Ameba Ownd
2023年。新たな一年が始まった。好天に恵まれて高望みのない平凡な三賀日を過ごして体を休めることができた。人生には息抜きが必要だ。いよいよ今年は50年目の誕生日がやってくる。もはや過去は現在に集約され振り返るまでもなくなった。ここにいる私とここにいるあなたとこれから過ごすあなたと今を生きていく。凄いことは今を生きているということ。もうそれだけで充分だ。どうせいつかは転がり落ちるように絵巻物のような現実から消えゆくのが人生なのだから。今まで見た景色はどんな景色だっただろうか。見たい景色を見られただろうか。「あなたが居てくれてよかった」と言われると、幸せ。あなたは、私。共に過ごすひとときは、互いの境界を曖昧にする。私はこれからもあなたと生きていく。あなたと新しい景色を見続ける。大切なあなたと。あなたと会いあなたと過ごす。それが、私の生きる幸せだから。そして人生の最後に出会うあなたは私になって「私でよかった」って言えれば大成功。さて。今年も沢山のあなたと見たい景色を眺められますように。 viaSLOW DOWN LIFE Your own website, Ameba Ownd
世間はクリスマス。暦は普通の週末でもあるので日曜は仕事に奔走している。穏やかな、朝。公園でおひさまの暖かさを感じながらスタエフ収録。サンタさんがくれたものは穏やかな日曜日。雪のない地域で普通に仕事ができている。今年は訪問スタイルに短時間サービスが増えた。のべ100件を超えてもようやく70時間という現実に移動ばかりしてる感覚。これじゃ、訪問介護の魅力は減るばかり。先が思いやられる。理想は1時間の滞在で対話をし意欲を引き出すこと。今は仕方ないので短時間で出来うる声掛けをする。それでも日々の継続のお陰で改善傾向を示されるケースが増えたのは嬉しいことだった。クリスマスの仕事も、短時間の訪問が6件。合間に保護猫のご縁で通うようになった保護主のお宅へも行く。昨日のクリスマスイブ。夫からギフトを頂いた。「いつもありがとう」とカードが添えられていた。私からは、ナンニモナイ。日々、ご飯を用意するので精一杯だった。ギフトへの期待もなかったので思わぬサプライズだった。保護主のご夫婦からも、ギフトを頂いた。「あなたには助けてもらったから」と、感謝されながら。私が出来ることはナンニモナイ。ただ、その人の声に耳を傾けてその人の意欲になる言葉を対話で引き出しているだけだ。「顔見れば安心する」と、喜んでくれる。よる年波で体調を崩し、世間との接点が減ってしまった人には誰かの来訪はありがたいものだ。「おくりものは、ナンニモナイ」という絵本がある。おくりものはナンニモナイAmazon(アマゾン)232〜3,696円大好きな誰かに何を贈ろうか考えて、ナンニモナイを贈る。そしてそこには共に過ごす時間が生まれる。無力感に嫌気がさすこともあった仕事にも、意義を感じることができた。ナンニモナイを、贈り続ける。それは実は、ちょっとした気遣いとか共感とか励ましとか目に見えないけれど温かい空気のようなもの。私はコロナ禍で人の家に訪問し、ナンニモナイを贈って来ていたのだ。受け取れる人にはちゃんと届いていたのだ。何だかワタシ、サンタさんみたい。そう思えたら、嬉しくなった。夫が出先から持ち帰ったフリーペーパー。何だかクリスマスの私みたいで嬉しくなった。 viaSLOW DOWN LIFE Your own website, Ameba Ownd
計らずも今年は2度もGoogleのストリートビューに映り込んでしまった。1度目に映り込んだときは真夏。炎天下の仕事中だった。2度目は最近。10月の通勤途中だった。地図の更新頻度はどれくらいだろうか。履歴を見る限り、年に1度のペースで更新がされているようなので、気になるエリアを見直してみると、馴染みの地域猫が映り込んでいたりする。通勤エリアでも、八百屋のご主人が映り込んでいたことがあった。今年の1月に閉店されたので今では懐かしい思い出の記録となったが、街の景色になって働く姿が残ることを素敵だなぁと思っていた。それがまさか、自分もそうなるとは。実は私は自宅のベランダにも映り込んでおり、今は更新されてしまったと思うがベランダで植物を愛でている様子が街の景色の一部であることが嬉しかった。今年に入り、2度も映り込んだ。街で働くと、その地域で映り込む確率が高くなるのは当然のことだが、それだけ私は一定のリズムを持って生活したり働いたりしているのかと愉快になった。私の仕事は別れを前提に行われるものだ。人によってはかなり積極的に別れを願ってしまうこともある。本人が辛そうだったり制度に依存しすぎていたり。続いてほしい仕事となることは理想であるが複雑な場合も多い。たまたまだが、映り込んでいた場所での私はこの先も続いてほしいと願う気持ちが強かったのに驚いている。改めて自身の姿を眺めながら、恵まれた環境をありがたく思い、その時の心持ちを大切にしようと改めて再認識した。街に住まえば、買い物や通院、散歩などそれぞれの活動が一定のリズムを刻み、街の景色の一部となる。その風景が絶やされることなく穏やかに続いてくれることは当たり前ではない。変化とともに取り残された場所も景色として切り取られる。街を愛しながら、景色の変化を受け入れながら、ともに歳を重ねていく。 viaSLOW DOWN LIFE Your own website, Ameba Ownd
コロナ禍に終わりはない。見切りをつけたかのように、世の中に賑わいが戻ってきた。 令和4年10月。3年ぶりに地元で開催される花火大会の抽選席が当たった。来場規制と感染対策のゾーン分けがされた土手に座り、ゆったりと夜空に咲く大輪の花を眺めた。 花火には、鎮魂の意味がある。使い方を誤れば凶器となる爆薬を、空に放って鑑賞するのが花火で、日本では徳川吉宗の時代、川開きの際に慰霊や悪疫退散を願うものとして本格的に打ち上げられたという。今年は秋の開催となったが、コロナ禍で急変して亡くなった多くの方や、9月に川の上流で失踪した幼い子供の魂を思い、鎮魂の思いで夜空を見上げた。 8月の盆休みに、双葉町の伝承館を経由して、陸前高田の一本松へドライブで向かった。 災害の記憶を伝承することは、その地域への鎮魂になると考えられてのことだろうか、日本中に震災、津波、原子力災害を伝承する沢山の施設が慰霊碑と共に作られていることを知り、その数の多さに衝撃を受けた。特に双葉町は、町に人が戻っていない段階で、施設だけが整然と鎮座しており、閑散としていた。 気仙沼で被災した年配の友人は言う。「震災や津波の伝承館へは、行く気になれない」と。あの日、出先から帰宅する道を山側に選んだことで津波の被害を免れた友人は、残された人の支援に奔走し、食材を配ることで心を支えて来た。今も畑を耕し、手作りのらっきょう漬や梅干しを我が家に送って下さるが、沿岸地域の観光地へは意識が向かないようだった。 同じく気仙沼で震災の月に生まれた友人の娘さんは、来年中学生となる。残り少ない学年行事では、未来の夢について発表する場が設けられたそうだが、自身の夢を語るには抵抗があるようだった。 11月11日に封切りとなった映画『すずめの戸締まり』は、宮崎県にある廃墟の扉を起点として、日本中に起きる災いを鎮め、主人公が震災後の自身の心と向き合い成長していくロードムービーだ。震災から12年が経過し、心の傷を癒せるのは今を生きている自分だということに気づく。旅の最後は宮城県だった。映画に描かれた風景と共に、私自身が生きてきた12年を思い、作品の展開にも引き込まれて涙が溢れた。浄化の涙だった。 鎮魂は、決別の儀式。映画では廃墟となり人々から忘れられた場所の扉を締めることで災いが鎮められた。秋の夜空に打ち上げられた花火が音と共に彩り豊かな光を放つことで、鬱屈とした現実の空気を吹き飛ばして浄化された空が広がっていく。 変異株の感染拡大や、海外からのミサイル威嚇、ウクライナ侵攻による景気後退など、日々の不安や不快感の種は尽きることがない。しかし心のなかでそれらを増幅させることなく鎮めながら、令和5年の地元の空にも花火が上がることを楽しみにしている。 viaSLOW DOWN LIFE Your own website, Ameba Ownd
少し早めの紅葉を眺めに、文化の日の祝日、両親を連れて筑波山へドライブに行った。帰り道、地元のレストランで夕飯を食べて満腹になった父がふと、「生きていてよかった」と呟いた。 奇遇にも同じ言葉をつい最近、仕事の訪問先でも聞いていた。90代の男性が、若い頃子供を連れて旅行した東北地方へ、先日4泊5日のドライブツアーとして子供達に連れて行って貰ったという話を聞いた時、旅の感想を訪ねた返答と、同じ言葉だった。 生きていて、よかった。その言葉の重みを改めて痛感する。歳を重ね、自身では出来ないことが増えていく中で、思いもよらず夢が叶ったような出来事に遭遇したとき、思わず口からでる言葉なのだと思う。そしてコロナ禍を生き抜いている今、誰しもが発しうる言葉だ。 コロナ禍で、生きていることを疑問に思うような日々が続いている。無力感に打ちひしがれる事が、頻繁に起こる。更にはそれが、終わりなく続いていくような絶望感まで訪れる。 ステイホームこそ無くなったが、コロナ禍で人の活動量は明らかに減っている。先日の筑波山登山では、男体山側にあるケーブルカーを使った負担の少ないルートを予定していたが、それでも母には辛かったようだ。「少し位辛い思いをしないと喜びも味わえないよ」と父は笑顔で話していたが、77歳の父と72歳の母にとって、久しぶりの山登りは想像以上の負担だった。帰りは私が母の手を取って導くこともあった。ケーブルカーまでの道も、かなり大きな段差の階段が続いており、せめてもう少し道が緩やかなら、と私でも思ったほどだった。山道の整備不足も、あるのかも知れない。 幸い気温が高く、山頂からの景色は遠くが霞むほどだったので、爽快感を味わって山を降りることが出来た。子供時代の私と、軽々と山道を歩いたのになぁと、父は懐かしみつつ少し残念そうだった。 今年は特に沢山の方が、急変して入院したり亡くなったりしている。身内でなくてもそのショックは、じわじわとストレスとして襲いかかってくる。体力も免疫も落ちて、いつの間にか出来ることも減ってしまう。寄る年波の大きさを、身近に感じる登山でもあった。登れる足腰があるうちに、一緒に行けてよかった。 行きたいところや会いたい人のところへ、行けるうち、会えるうちに動けることの大切さ。私達は、想定外の危険に晒され生きている。その報いが感じられた時、生きていてよかったと心から思う。 viaSLOW DOWN LIFE Your own website, Ameba Ownd
災難はいつも想定外のところから降って湧くのだと生まれて初めて実感した。心配事の殆どは起きないと言われるのは心配事の枠外から災難がやって来るから考えてもムダということなんだ。8月。衝撃の第一発見者になった、そのすぐ後の出来事だった。衝撃の出来事は想定内だったが、その後の災難はジワリと想定外に「降ってきた」。上の階からの、水漏れ。水道管の劣化によるものだった。寝室の押入れから、壁を伝ってリビングの壁へ。雨漏り程度かと思ったら一晩で衣装ケースが一杯になった。お盆休み中で管理会社と連絡が取れず、夫婦で浸水対策に追われていたが、下の階にも水漏れがあったことでその家族とひょんなご縁に恵まれて水道管補修は数日後に行われたものの、被災した押入れや壁紙の補修は10月の3連休にようやく行われた。ひょんなご縁とは、自治会つながりのご近所さんであった。下の階のご家族で、たまたま別の部屋を親子で借りており、しかも管理会社に勤務したことのある内情をよく知る方だったのだ。その方のお陰で想定以上の広範囲な補修が行われることになった。補修工事の間、他の部屋で寝起きするつもりだったのも想定外に大規模工事となったので、寝床の確保が必要となった。ちょっとした災難続きだったが、せっかくだからお世話になろう!とコロナ禍であまり行かなくなった夫の実家に緊急避難することにした。いずれは介護などで通いも発生するだろうと中古車を買ったばかりだが、こんなカタチで有効活用できたのも想定外だった。(台風や豪雨での通勤対策としても役に立っているが)まさかの集合住宅内で水漏れ災害。だけど結果、断捨離が強制的に進んでおり、夫の両親との交流も出来たので、いい事だらけ。災い転じて福となった。地元で働き出して自転車での移動に支障を感じたこと。天災が加速度を増したこと。コロナ禍で親の健康を危惧したこと。諸々の懸念から未来にむけて決断したこと。今、救いとなっていることは、過去からのギフトなんだと思う。どんな決断も、未来につなげていける。今、出来ることをしていれば。水漏れ修理は襖と畳の交換で終わる。風通しの良くなった寝室で、未来にむけて日々、工夫してギフトを贈り続けていきたい。 viaSLOW DOWN LIFE Your own website, Ameba Ownd
秋刀魚が届いた。「捕れたら送ります」と言っていたっけ。気仙沼からの、ギフト。今年は身の回りがざわついていて心にもありがたかった。2011年のあの日から、気仙沼の大切な人たちと繋がっている。あの日、居ても立っても居られずmixiで呼びかけする人の書き込みから色んな繋がりが生まれたけれど、自らの足で出向いたことがこんな幸せなギフトに繋がるとは想像すらしていなかった。秋刀魚の漁獲量はかなり目減りしているので、送ることができませんでした、と言われた年もあった。今年届いた秋刀魚たちは6尾。夫とはんぶんこで1尾頂いた。3尾は実家へお裾分け。残り2尾は大事にまた分け合って夫と頂くつもりだ。秋刀魚は字のとおり刀のようにキラキラと美しい曲線をしている。なんて滑らかな肌なんだろう。見惚れてなかなかグリルに入れられず、丸焼きして解して頂くと身の解れ方も美しかった。もちろん、味もしっかりとしていて新鮮な秋の味覚を、贅沢に味わえた。人は人によって元気づけられる。それをコロナ禍で実感した。全量把握の見直しがされ、感染者のメールが届かなくなったのは秋刀魚が届く前日のことだ。両親と外食しながら5回目のワクチン接種について話すと、もう、打たなくてもいいんじゃないかなと、母が呟いた。これからは生命維持活動の主戦場がもっとシビアになる。災害だって日々の脅威だ。あの頃辿々しく使っていたSNSは、今や欠かせないツールとなった。助け合いの繋がりが生まれるべくして生まれている。日々、それぞれが決断し、実行する。それが、生きるということ。無意識に作動する心臓や呼吸のように疑うことなくそれぞれに決断し実行する。例えそこに横槍が入ったとしても揺さぶられずに信念をもって進んで行くことが、明日の自分へのギフトとなる。今も、、私達は過去の自分からのギフトを受け取っているのだから。 viaSLOW DOWN LIFE Your own website, Ameba Ownd
今年に入ってひょんなきっかけで津軽三味線と親しくなった 楽器を奏でてみたいという欲求は上手になりたいにはなかなか繋がらない。オルガンエレクトーンピアノピアニカ縦笛チューバ木琴ドラムなどなど。音楽教室や学校の部活などで触れてきたもの。合奏するのが楽しかった。大人になって奏でてみた楽器は、ウクレレジェンベ(アフリカの打楽器)アルパ(パラグアイのハープ)琴カリンバ三味線ジェンベ以外、ひとりでも楽しめそうなもの。音に対する興味は仏具のおりんにまで及んだ。なぜなんだろう?聴くだけで満足しないのは。私はなんで音を奏でたいんだろう??そんな問いへの答えが思いの外早く現れた。市川方面にドライブしたとき、夫が気になるお寺がある、と連れて行ってくれた法華経寺の参道で、津軽三味線の演奏会を知った。お休みが合ったのと足を向けやすい場所だったのが目を引き、何より弘前大学のサークルの学生達の演奏を生で聴いてみたい!と思ったことで足を運ぶこととなった。上野公園内にある、旧奏楽堂。モダンな外装の施設で、演奏会が催された。総勢50人にもなるサークルから8名が奏者として参加。 津軽じょんがら節にはじまり、毎年制作されるオリジナル曲から数曲が披露され、更にはアルパとの共演もあった。それぞれにマイクをもち、弘前についても紹介しつつ個々の自己紹介。独奏では個性豊かなアレンジも披露されていた。決められた音を美しく奏でることで心を整えていた私には、その個性の迸りがとても印象的だった。 上手くなくていい。自分なりの音を自分なりの方法で奏でるのが楽器なんだ。津軽三味線は体に斜めに固定したポジションから押さえつけるように弦を弾いて弦と体を共鳴させるところに魂の叫びのような躍動感を感じるソウルフルな楽器だと思う。魂を楽器に投影して個を奏でる。自身が楽器になるかのように。私はコロナ禍で飛沫を意識しないでよい楽器としてカリンバと知り合った。携帯できる気軽さで音の美しさに癒やされながら、弾き方にも個性があるのだということに気づいて愛おしくなった。楽器とは、伴侶のようなものなのだ。歌いたくなるとウクレレを引っ張り出す。楽器から溢れた音が自身を包み込み、聴く人の耳に届くときはその人に寄り添い心を整えてくれる。私の中から音が出るのではなく、楽器の音が私に響くのだ。心を空っぽにして無心に奏でよう。楽器の音に私が宿るように。 viaSLOW DOWN LIFE Your own website, Ameba Ownd